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角川文庫刊。
先週末、久々に本棚と押入れ文庫の棚卸をしました。棚卸の際には本のタイトルとジャンルだけを見なければなりません。間違っても本文や抄録を読んではいけません。その場で作業が止まります。
で、売り飛ばす本を箱詰めしていたんですが、なんだこのハー●クイン箱は。
疲れた時には頭を使わない本、ということでハーレク●ンヒストリカル系を買うんですけど、箱が出来る程買っていたって…どれほど憑かれていたのかと……。
そういうロマンス小説の翻訳を仕事とするあかりの、とある7日間を語ったのがこの話。
「濡れ場が何頁に来るかもだいたい見当がつく」ロマンス小説を、本文に即して、なおかつ日本人女性読者の口当たりの良いように翻訳する、そんな手馴れた作業で終わるはずだった今回の仕事。なのになのにああそれなのに。
ロマンス小説に私が求めるのは、大いなるマンネリ、まさにこれです。気が強くて繊細で聡明な美しい姫君と、言動はやや乱暴ながらどこか憂いの影を秘めた心身ともに成熟した黒髪の騎士(なんで金髪率が低いんだろう)が、様々な困難や心のすれ違いを経験しつつも最後はハッピーエンド。始めの3ページで誰に死にフラグが立っているかすら読み取れる、見事に完成されたテンプレこそを私は愛する!だって想定から絶対にはみ出ないので安心して楽しめるから。メンタルスナックという呼び名は非常に正しい。
そのテンプレを逸脱し、物語を登場人物たちの自主性に任せるとどうなるか。
捻じ曲がってしまったロマンス小説と、捻じ曲げてしまった翻訳者のあかり。このふたつがシンクロし乖離して、「ロマンス小説の7日間」が綴られていきます。あかりのぶつけよう無い憤りと途方にくれた不安と煮え切らない閉塞感が、のほほんと(いや、それなりに必死なんだろうがさ…)色恋に勤しむアリエノール姫の麗しき恋物語の行く末をハードにバイオレンスに彩り始める、俺的にはこっちの物語のほうがはるかに手に汗握りますが、手に汗握ったらそれはロマンス小説ではないのだよヤ●トの諸君。
この差はなんだろうと考えるに、ロマンス小説は絶対の安定(そしてふたりは、いつまでも幸せに暮らしました)に向けて花も嵐も踏み越えていく物語であるのに対して、あかりとアリエノール姫が選んだのは、その先がなんであろうとも前進していくという最初の一歩、この違いではないかと。どちらが正しい、のではなく単なる指向だと思います。ただ、あかりが頭を上げるのには確かにアリエノール姫の決断が必要だったし、アリエノール姫を小説の登場人物ではなくれっきとした女領主のひとりとして見ると、彼女はあかりの「あなたならどうするの?」という問いかけが必要だった。「私ならどうするか」。自らに問い続け、答え続けるのを選んだふたりの物語、と私は見ました。
一方で、やはりこの話は恋愛小説だとも思います。三浦氏は色恋が苦手とエッセイで書いていらしたし、後書きでも仰ってますけど、なかなかどうして描写が巧み。彼がいるという安心感とくすぐったいような気分、その一方のとほほ感とか惰性と化している部分とか恋人という存在のウザさ加減とか…なんか端々が変に生々しいんですけど。いい意味で夢もへったくれもない。ともあれ、どのように読むとしても、読後はしゃきっとした爽快さを味わえます。
ところで三浦しをん氏を本腰入れて読み始めたきっかけは、新書館刊行のエッセイ「妄想炸裂」の、文庫版190頁のじいさまと火炎放射器の話(嘘は言っていない)でした。間合いの取り方が上手いなあ、と。
ついでに箱根駅伝を描いた氏の長編「風が強く吹いている」(お勧め)(泣いた)を読まれた方は、上記「妄想炸裂」を読まれることを強く強くお勧めします。ちなみに刊行時期は妄想~が先です。マーヴェラス。